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ウンベルト1世 (サヴォイア伯)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ウンベルト1世
Umberto I
サヴォイア伯
在位 1003年?/1032年? - 1047年/1048年

出生 980年
ブルグント王国モーリエンヌ
死去 1047年7月19日/1048年7月1日
サヴォイア伯国、エルミヨン
埋葬 サヴォイア伯国サン=ジャン=ド=モーリエンヌ大聖堂
配偶者 アンシリア・ダオスタ?
子女
家名 サヴォイア家
父親 ベルトルト・フォン・ザクセン?
母親 カタリーナ・フォン・バイエルン?
宗教 キリスト教カトリック教会
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ウンベルト1世ビアンカマーノイタリア語: Umberto I Biancamano, 980年頃 - 1047年/1048年)は、初代サヴォイア(サヴォワ)伯サヴォイア家の祖。

「ビアンカマーノ」とはイタリア語で「白い手」を意味する。フランス語名ではアンベール・オ・ブランシュ・マンHumbert aux Blanches Mains)、ラテン語名ではフンベルトゥス・アルビス・マニブス(Humbertus albis manibus)。

生涯

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生い立ちと家系

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サヴォイア家の家祖となったウンベルト1世の家系や事跡については、のちに顕彰が図られ物語化されている(#伝説節参照)。しかし、同時代の記録は断片的であり、実際のウンベルト1世(以下、ウンベルト)の生没年や家系は明確にはわからない。

ウンベルトは980年頃、サヴォワ地方モーリエンヌ英語版(現:フランスサヴォワ県サン=ジャン=ド=モーリエンヌ周辺)の貴族アマデウス(おそらくはモーリエンヌの)の子として生まれた[1]。兄弟にはベレー(現:アン県)の司教となったオッドーネがいる。

ウンベルトは、サクソン人ブルグント人プロヴァンス人などの血を引いていたと言われている。ブルグント王国アルル王国)の王ルドルフ3世 (Rudolph III of Burgundyとの近い関係[2]から、ウンベルトの家系はブルグント人と考えられ、ヴィエンヌ伯家の血を引くか[3]、あるいはブルグント貴族の家系(たとえばアルボン伯家と同族)ではないか[4]といった推測がされている。

初代サヴォイア伯

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ウンベルトははじめベレー付近とセルモラン伯爵領(Sermorens)の中に領地を持っており、のちにアオスタヴァレーに領土を得た[5]

ウンベルトの子孫は「サヴォイア伯」を世襲して「サヴォイア家」と呼ばれるが、その称号を得た経緯ははっきりしない。ウンベルトの名が文献上に初めて登場するのは1000年1月26日付けの文書であり、以後断片的に史料に登場する。1003年の年紀のあるベレー司教オッドーネによる文書では、ウンベルトの家族が「伯」の家族と呼ばれることがわかる。1003年にウンベルトはブルグント王ルドルフ3世に代わり、セルモランの一部であるヴィエンヌ(現:イゼール県)で判決を下している。

1032年、ルドルフ3世が後継者なく没してブルグント王家が断絶すると、ブルグント王位はルドルフ3世の甥にあたる神聖ローマ皇帝コンラート2世が継承した。ウンベルトはコンラート2世に忠誠を誓った[6]。コンラート2世がブロワ伯ウード2世 (Odo II, Count of Bloisやミラノ大司教アリベルト (Aribert (archbishop of Milan)と戦うと、ウンベルトはコンラート2世を助けて戦争に参加した[7]。コンラート2世はその功績に報い、ウンベルトをサヴォイア伯として承認するとともに、モーリエンヌ、シャブレー、そしておそらくタレンテーズ (Tarentaise Valleyを新たに与えた[8]

ウンベルトは、1047年か48年ごろに、モーリエンヌにある町エルミヨンにおいて死去し[9]サン=ジャン=ド=モーリエンヌのカテドラルに埋葬された。死亡日については、1048年7月1日、1047年7月19日という2通りの記録がある。1042年以前に没していると見るのが妥当という説もある[10]。所領は長男のアメデーオ1世が継承した。

家族

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ウンベルト1世の墓(サン=ジャン=ド=モーリエンヌ

アンシリア(Ancilia あるいは Ancilla、Auxilia)という女性と結婚した。彼女の出自については諸説ある。

知られている説では、高位聖職者の娘「アオスタのアンシリア」とする。

一説にはブルグント王国の儀典長の娘である「レンツブルクのアンシリア」、また別の説ではアンセルムと Aldiud の娘であるアンシリアで、アンセルム家(Anselmids)と呼ばれる北イタリアの王家の出身とする[11]

子供は、少なくとも4男1女を儲けた。

論者によっては、他にも子がいたとする。

ウンベルトの子孫は19世紀後半にイタリアを統一し、イタリア王に即位することになる。

伝説

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サヴォイア家について書かれた最も古い年代記の一つは、15世紀前半に Giovanni d'Orville によって書かれたものである。サヴォイア伯アメデーオ8世の依頼によって制作されたこの年代記では、400年続くサヴォイア家の始祖であるウンベルト1世の事績を(恋愛、放浪、武勲などさまざまなロマンスを盛り込みながら)おおむね以下のように描いた。

神聖ローマ皇帝オットー2世の孫にあたるサクソン人(ザクセン人)貴族ベロルド(ベルトルト)を父、バイエルン人貴族のカタリーナ(カテリーナ)を母として生まれたウンベルト1世は、フランケン大公コンラート(のちの神聖ローマ皇帝コンラート2世)に従って武功を挙げる。1003年にコンラートからアルプス一帯を与えられたウンベルトは、のちにサヴォイア(サヴォワ)伯国と呼ばれることになる実質的な勢力を築いた[12]

ビアンカマーノ

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「ビアンカマーノ」は、実際に手が(揶揄される程に)白いという意味ではなく、「清廉な人」を指す尊称であるとされる[12]

ただし、彼の城の「白い壁」blancis moenibus を指すラテン語を後世の人が「白い手」albis manibusと誤読したためではないか[12]、とするなどの諸説がある。

脚注

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  1. ^ Hellmann, Grafen, p. 2.
  2. ^ For Umberto's relationship with Rudolf III, see Previté-Orton, Early History, pp. 9, 13ff.,26, 38, 47ff,
  3. ^ Previté-Orton, Early History
  4. ^ Ducourthial, ‘Géographie du pouvoir'
  5. ^ Ducourthial, ‘Géographie,’ pp. 223-235
  6. ^ Previté-Orton, Early History, pp. 32f.
  7. ^ Previté-Orton, Early History, pp. 19, 30ff., 35, 41; Hellmann, Grafen, pp. 8ff.
  8. ^ Ducouthial, ‘Géographie,’pp. 235-238. By contrast, Hellmann, Grafen, p. 3 argues Umberto possessed Maurienne long before this.
  9. ^ Previté-Orton, Early History, pp. 39f., 69; Hellmann, Grafen, p. 10
  10. ^ Ducourthial, ‘Géographie,’ p. 231
  11. ^ On the identity of Umberto's wife, see Previté-Orton, Early History, pp. 10f., 19ff., 67f., 71; Die Urkunden der burgundischen Rudolfinger, p. 23 n.11.
  12. ^ a b c History of House of Savoy

参考文献

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  • C.W. Previté-Orton, The Early History of the House of Savoy (1000-1233) (Cambridge, 1912), accessible online at: archive.org
  • S. Hellmann, Die Grafen von Savoyen und das Reich: bis zum Ende der staufischen Periode (Innsbruck, 1900), accessible online (but without page numbers) at: Genealogie Mittelalter
  • Die Urkunden der burgundischen Rudolfinger, ed. T. Schieffer, MGH DD Burg (Munich, 1977), accessible online at: Monumenta Germaniae Historia
  • C. Ducourthial, ‘Géographie du pouvoir en pays de Savoie au tournant de l’an Mil,’ in C. Guilleré, J- M. Poisson, L. Ripart and C. Ducourthial, eds., Le royaume de Bourgogne autour de l’an mil (Chambéry, 2008), pp. 207–246.